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【前編】なぜ、山岡朝子は雑誌「ハルメク」編集長になったのか? 今まで明かしたことのない幼少期から学生時代にあった大きなヒント。

ハルメクグループの「今」と「未来」を伝えるオウンドメディア「ハルイロ」をご覧いただきありがとうございます。
今回はハルメクの取締役であり、雑誌「ハルメク」編集長や「ハルメク365」を統括する山岡朝子が登場!
今までにない、山岡の人柄や生き方を垣間見れるスペシャルな前後編のロングインタビューです!

想像の斜め上をいく、文学少女。

「ちょっとおかしいくらい本が好き」だった少女時代。

(編集部)まずは、子どもの頃のお話を聞かせてください。文学少女だったとお聞きしました。

山岡朝子(以下、山岡)読書が好き、というかちょっとおかしいくらい本が好きな子どもでした(笑)。学校の図書室にある本や近所の書店の児童書は、すぐに読み終わってしまって。親は私に本を与えるのが追いつかなくなって、一時期は大人用の本に読み仮名を振ってもらって読んでいました(笑)。小学2年生くらいからは日本文学全集とか世界文学全集が定期的に届くように手配してくれました。

(編集部)子ども向けの文学全集ですか?

(山岡)子ども向けですが、原作・原文のままの全集でした。世界文学全集は第一巻が宝島、第二巻が若草物語。どれも原作はかなりの長編です。日本文学全集は古くて難解な表現も注釈付きでそのまま掲載されていました。他にも伝記の全集などを加えて、とにかくたくさんの本を与えてもらって感謝しています。
親だけでなく、祖父母も私の本好きを理解してくれました。たとえば、父方の祖母の家には古い絵本が1冊しかなかったんですね。遊びに行くとそれしか読むものがなくて退屈で。しまいにはどうしたかと言うと、最後のページの最後の行の最後の文字から逆に読みあげるということを始めました(笑)。とにかく字が読みたい。1冊しかないから変化をつけて読みたいと(笑)。でもそんな変な朗読をする私を、祖母はいつもニコニコと「面白いねえ」って言いながら何度でも聞いてくれて。

(編集部)えーー!一般的な「文学少女」の想像を超えてますね!

(山岡)母方の祖母の家にも本がなかったのですが、退屈しのぎに、好きな小説の続編とか別エンディングを創作して過ごしました。本がないから自分で書いて、読んで、周囲にも読み聞かせて(笑)。家族や親せきはみんな「面白いねえ」って拍手してくれて。絶対つまらなかったと思いますが、みんなで私の個性を理解してくれたんですね。祖母は、私が好きなだけ書けるように、裏が白いチラシをたくさん集めてストックしてくれていました。

「人生は自転車こぎのようなものだ」

建築士のお父様と一緒に。

(編集部)お父様は理系だそうですね。

(山岡)そうです。父は一級建築士で地図に残るような大きな施設の設計を手掛けていました。私にも建築方面に興味を持ってほしかったようです。でも、私が本ばかり読んでいるので途中から、「本を読むんだったら、必ず感想文を書け」と言い出して。それで、子どもらしい感想文を書く小学生の私に、「これは文章の構築ができていない」とか「これは引用であって自分の意見じゃない」「結論がないじゃないか」なんて言うんです。理系的というか、論理的思考を教えたかったのでしょう。それは、今の私の基礎になっていると思います。
他に私の人生に影響があったなと思うのは、父から「朝子、人生は自転車こぎみたいなものなんだぞ」って、言われたことですね。「こぎ続けないと転んでしまう、休むことは許されない」って。

(編集部)小学生にはハードルが高いですね。

(山岡)厳しいんです(笑)。こぎ続けないと、つまり、努力を続けないと倒れてしまう、常に前に進むこと、と言われて、それが小学生ながら胸に響いて、勉強でも仕事でも、生き方の指針になったところはあります。

(編集部)お母様はどうだったのですか?

(山岡)母は私を、勉強よりも家庭的な女性に育てたかったようで、小さい頃から母と一緒に手芸をしたり、編み物をしたり、お菓子作りやお料理も頻繁にしました。レースのカーテンのかかったリビングで娘がピアノを弾くのが夢だったらしいのですが、それは私が嫌がって叶わなかったそうです(笑)
本が好きでいつも空想ばかりしている自分と、父から言われて論理的に思考する自分、母と一緒に手芸やお料理などをする自分、3つの面があったのですが、どれも苦ではなかったです。生活実用の分野で編集者となり、一方で事業構想や経営の数字も理解する、今の自分の仕事に全部がつながっていると思います。

大学4年間を捧げたボランティア活動。

大学時代の、障がい者の方の外出を支援するボランティア活動。右側が山岡。

(編集部)大学は、文学部に入られたということで。サークル活動などはされましたか?

(山岡)最初は一般的なサークルに入ろうと思って何か所か見学に行ったんですけど、貴重な4年間を捧げるに値すると思えなくて(笑)。結局、地元の自治体に「資格がなくてもできるボランティア団体はありませんか」と相談し、障がい者の方の外出支援団体を紹介してもらって4年間所属しました。
その団体では、外出は2つの意味で貢献になる、と教わりました。1つはご本人が行きたいところに行けること、もう1つは、その間ご家族の方がいつもと違う時間を過ごせることです。
例えば、健常者のごきょうだいがいる場合、ご家族はどうしても障がいのあるお子さんの方にかかりきりになってしまうことが多いのですが、外出支援を受けて親御さんに時間ができることで、健常者のごきょうだいも普段できなかった「親を独り占めできる時間」を持てるんですね。
外出先は動物園や遊園地、観光スポットなどいろいろでしたが、今から30年近く前なので、まだまだ社会的に障がい者への理解が低かった時代。車いすで移動するのはとても大変でしたし、知的障害の方と歩いているだけで酷い言葉を投げかけられたりすることがありました。彼らと一緒にいることで、それまで見えなかった景色が見えてきて、社会の別の面を目の当たりにし、大きなショックも受けました。
当時、将来は文章を書いたり表現したりする仕事ができたらいいなと思っていたのですが、そのボランティア活動で感じた問題意識が重なって、新聞社や出版社といったメディアで発信する仕事を希望するようになりました。

(編集部)学生時代も何か文章は書かれていたのですか?

(山岡)はい。というのも、特に高校生の時はアルバイト禁止だったんですが、私服の学校だったこともあって、おしゃれな服も欲しかった。それで、作文コンクールを見つけては片っ端から応募して、入賞賞金の金一封をもらっていました(笑)。かなりの確率で受賞できていましたね。毎回1~3万円くらいですが、高校生のバイト代ぐらいは稼げていたかな。テーマに沿った文章を、読み手に伝わるように書く技術は培われたかも(笑)。

(編集部)すごい、作文コンクール荒らしだ!(笑)。私たちの中でも、今の山岡さんまでの流れが自然にしっくりきました。

後編では、山岡さんの駆け出し時代のエピソードや仕事術まで、ご紹介します。

(クレジット)
カメラマン/貴嗣 編集/聡子、ゆりか ライター/久美子 

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